祇園祭の重き祓い

京都の祇園祭りに出かけた。22才のとき、祇園まつりの真っ只中の京に

出むいてから2度目である。

京都駅からほど近いホテルに宿を取り混雑キマわりない四条通で鉾を眺め、

先斗町のいきつけのバールで一杯引っかけた。

国内外の人でごった返す道を楽しみながら夕暮れの京を堪能した。

平安の頃、疫病が流行り多くの平安京の人々を死に至らしめた。

医薬品のない時代、病を起こすものは疫病神であり、その障り、祟りが

恐れられた。病の穢れを祓うには神や仏の人智を越える力に頼るしかない。

祈祷法が施され、平安の地に彷徨う忌み嫌う亡者、疫病の神を祓い鎮魂することが

急務でなされた。祇園の鉾は平安京の穢れ、障り、祟りを集め祓うために

おこなわれた。

前祭では、鉾の先頭が八坂神社の結界を真剣で断ち切る。これにより

鉾は神の世界へと詣でる。絢爛豪華な鉾はそれぞれに艶やかである。

ぼくらは見えるものを信じているようだが、このような儀礼をみると

恒久の彼方から見えないもの、気配こそ信じられるものであったと感じる。

平安の絵巻には鬼や餓鬼、怨霊がさかんに画かれている。

見えないものを見た!いや、見えないものこそ恐れられていた。

ひとの心が闇でうごめき、人の生き死から政治までも揺さぶる荒ぶる神として

作用していたのである。祟りを恐れ神とし、災いを除けるために儀礼がおこなわれた

祭り政(まつりごと)であり神のはたらきを人間が受けたものである。

この気配は巷からは穢れ、障り、祟りのような大祓いするものであり、

神代として神のフルものは異彩を放ってであろう。

日頃、下世話なことで奔走するばかりでヘキヘキしていたことが、

祭りのみそぎで清々しながら、汗を拭った。

夏の祓いはいいと、街角の闇を覗くもの悪くはない。

京都に憧れて修学旅行で初めて神社、仏閣を訪れたが、なにせ少年である。

なんやかんやと心は躍るが、まともに見学などしていない。

東寺の伽藍配置に驚愕し、清水の舞台の大きさに驚き、

宿の枕投げに興じた。神も仏も入る隙間のない青春期である。

日本らしいですね、と言われる京都であるが芸道など知らぬものは

祇園をソトから眺め、なんとか老舗の会席料理をつまみ日本酒に舌鼓を打ち、

芸技の着物の擦れを聞きていい気なものである。

日本語それも古典からと久しぶりに古典を読みながら和漢混淆文を

味わうことも旅のよさと思いながら、現代語に洗脳されたことで

調子が整わない。

なんとも、諳んじていた和歌もどこえやら・・・。

ヤマヤマさんが推薦していた橋本治の「これで古典がわかる」「ちゃんと話す敬語の本」

など、幾冊かの橋本日本語論を通読した。

日本は漢字、カタカナ、平仮名を使い分ける文化であるが、そもそも

言語のなかった国であるという。朝鮮半島から中国の漢学を輸入し、男は漢字

それも公用語、女子は万葉仮名、ひらがなであった。

教養があることは漢学を修めることであり、女子は漢を読めることは今でいえば野暮

であり、婚期を逃す恐れもあったという。

金田一京助ではないが、言葉は変化しつづけている。

和漢混淆文で綴られた文は、いまや短縮ひらがなになっている。

なにやら、やばい、と感じるのは歳なのかもしれないが、

和歌のように、逢えない女をおもって和歌で恋を伝えた人たちの思いの丈は

いかほどだったのだろう。

「まぐわい」という言葉はSEXであるとされるが「目合う(まぐあい)」であり

目があわせることだった。平安期の女子は家から出ない、目を合わすことがない。

今のようにデートなど不可能な世である。

思いを和歌にして送ったのである。返事も歌で返される。

和歌のできない男や女はそれはそれは難儀な時代であったろう。

目を合わせることが肉感にも迫る時代である。

和歌も情熱的なものが多いのも、想像の限りであったということであろう。

17歳の頃、フォークソングや海外の曲を聴きながら

恋に焦がれていた僕はサイモン&ガーファンクルの「スカボロフェアー」

や「サウンド・オブ・サイレンス」を聴きながら「雨に負けぬ花」で

失恋を癒やし、アート・ガーファンクルの「ウオーター・マーク」に

聞き惚れていた。

ぼくの思いをのせてLPがすり切れるまで聴いた。

おもいは、恋のような思いでもあり、怨魂すさまじい思いにもなる。

おもいは「重い」であれば、受け取り手も難儀であるわけで、

軽く響きながら心中に留まるような歌に憧れたものこの頃である。

そんなどうでもいい青春期の「重き」おもいを京の祇園の鉾は

祓ってくれた。

広告を非表示にする